やりたいことしかやりたくなーい

「他人がしたこと、しなかったことを見ない」

最近YouTubeのホームに出てきた仏教の動画のサムネに書いてあったことで、なんだかはっとして思わず拝聴するに至った。

 

頻繁に思い出すことはもうなくなったけど、今でもなにかの瞬間に、疑心暗鬼で自分で自分を追い詰めていたことや、未熟さから人を傷つけてしまっていたことや、それによって人から拒絶をされてしまったことが、いつのまにかのどに刺さった魚の骨みたいに存在していることがある。

前はそれを考え出したら本当にとまらなくて、自分も他人もいやでいやで仕方なくなった。誰のこともうまく許せなくて、だからわたしは人と関わるのはもう無理で、人の一挙手一投足に感情を動かされるのがしんどくて、生きていたくないと思った。

それでもわたしには変に負けず嫌いなところもあり、いくら生きていたくなくても自分が他所より楽しくないのはすごく腹が立つ。腹が立つし、情緒の波は制御できないくせに神経は意外と図太いので「死ぬことなんていつでもできるしその前になんでもやってやろう」と思った。(その頃ちょうど「やりたいことどんどんやれ」って言われてたしね

 

そこから、やりたいことやってみたいことはできる範囲でやることにした。とはいっても特に意気込んでなにかをするわけじゃなくて、自分がゆるくいられる程度でやる。

ペン字の練習。羊毛フェルト。水彩色鉛筆で絵を描くこと。ヨガ。観葉植物の世話。Dota2をまたやってみる。いろんなマンガを読むこと。小説を読むこと。ゲーム配信。Live2Dでアバターをつくること。

 

自分がなにかしらをやっているときは、ほかのことにまで考えがおよばなくなる。さっき書いたように魚の小骨みたいなのはたまに刺さるけど、最近のわたしはだいたい自分のすきなことを考えている気がする。

今まではできていなかった「他人がしたこと、しなかったことを見ない」が無意識にできるようになっていた。

もちろんごくたまに「あの時はああだった」と苦々しく思い出すこともあるけれど、そのときは「他人がしたこと、しなかったことを見ない。自分の目の前のことをやる」と頭の中で反芻する。

人にも言われたけれど、悔しさも悲しさも罪悪感も必要以上にふくらませることはない。そしてわたしはもうその過去に対してどうすることもできないのだから、だれかがわたしにしたこと、だれかがわたしにしなかったことを今考えていてもやっぱり仕方がない。

「誰かに腹を立てると、あなたはその人に支配されることになる」という言葉も読書を通じて見つけた。自分の時間を負の感情をふくらませるためだけにいつまでも使うのは生産的じゃないしもったいない。

 

今はこう思えるけど、実際怒りと悲しさでいっぱいだった2年ほどのあいだは人の言葉は自分の中でうまく消化できずにいた。そんなの簡単に気持ち切り替えられたら苦労しないよと思っていたし、できない自分がますます嫌いになった。でもその時があったからこそ、今ちゃんとこれらの言葉が腑に落ちているとも感じる。

 

だらだらと書いてしまったが、「他人がしたこと、しなかったことを見ない」はこれからもわたしにとってのいちばんの教訓になる言葉だ。他人が異常に気になるときは、自分に集中できてないときだ。だから、好きなことをたくさんやってベタベタに自分に甘くしてやるぞって思った。

 

最近書くことなさすぎたのでがんばった。ひさびさに長い文書いてたら案の定寝落ちてた。ガハハ。